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2005/10/29

偉大な書物のはなし

 ある日、私は「偉大な書物」について夢想したことがある。その書物は、たたみ一畳位の大きさで、とじこみの部分には蝶番(ちょうつがい)がついていた。その、厚い鉄の表紙にたとえば

  見よ!見よ!と老舵手は言った。「ツァラツストラは地獄へ行く!」

 といったニイチェの言葉など彫り込まれてあってもよいが、まったく別の---古代ボクシング史とか、カザノヴァ回想録といった文献資料が印刷されてあってもよいのである。
 要は、その書物をめくるに要する体力の問題にかかわっている。その鉄のページを、全力でひらいて「意味の世界」と対決するときの疲れ方---労働にも似たこころよさのようなものが、なぜか欲しくなってくるのである。
                                寺山修司書「幸福論」より

 寺山さんの幸福論を読んでいると自分がインディ・ジョーンズになったような様々な発見があります。”偉大な書物”いいですね。智力と体力に優れた者しか対峙できないもので、ヒマラヤ山中とか南極とかの極地とかにあったら、究極の幸福は偉大な書との対峙になるのかもしれません。

 この偉大な書物の後に、レイ・ブラッドベリの「華氏451度 」の話がでてきます。これは僕も読んだことのない本ですが、梵書を扱った小説でワクワクする話である上に考えさせます。

 ここでは私の「読書よ、さらば」の提案が、為政者によって取り上げられ、書物のない世界が現出するのである。書物にかわってテレビが知識や情報を伝達し、こっそりかくれて書物を読んでいるものがいると消防隊がかけつけてそれを焼き払ってしまう。
 そして、書物のたのしみ、人生の休暇は、法律によって禁じられる。
 それにかわったテレビは、しだいに環境化して視聴者に語りかけるだけでなく、視聴者の話も受け止めて、対話することになっている。主人公の妻は、スタジオと家庭とがひとつにつながった番組で、茶の間にすわったまま司会者と「話し合う」のである。そこには、一対一のコミュニケーションだけでなく、一対全体のコミュニケーションが、同じような「幸福論」への手がかりを与えると考えている未来社会への、警告がふくまれている。

                               寺山修司書「幸福論」より

”一対全体のコミュニケーション”ってまさにブログがそうです。政治家とか、有名人とか作家とか、反政府組織のアジテーターぐらいしかできなかった一対全体のコミュニケーションが、誰でも手軽にできるようになってしまったと感じます。僕は以前HPを持っていて、その時は掲示板も使っていたけれど、なんとなくクローズだなと感じていてこんな風には思わなかったけれど、ブログはまさにそうだなと思います。

田口ランディさんのブログの言葉という記事では、「私はときどき、自分がものすごく他人の言葉に傷ついていることに気がついて唖然とする。」なんて書いてあります。うーん僕も、あまりいろんなブログに遊びに行かない理由がこの辺りです。というか、寺山さんの本からの発見とランディさんの言葉などから、自戒しなくちゃねと思っています。

10月 29, 2005 書籍・雑誌, 田口ランディ |

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